第七議会

画面をみっちり文字で埋める系オタクの感情のたまり場

彼の人の誕生日に寄せて

 

 「最後のライブでめっちゃシャウトして行方不明になりたい!」

 これが、初めてわたしが読んだ彼のことばである。ファッション誌「anan」の創刊50周年記念特別号掲載のインタビュー、その一番最後。50年後何をしてると思いますかという問いに対する彼の答えだ。
 わたしがこれを読んだのはまだスト担になる前だった。元々推してるPerfumeが載るらしいということで買って、彼女たちのページを堪能した後、なんだかもったいないから前から順番にページを繰って、そしてSixTONESをみつけた。SixTONESという存在はその時既に知っていて、動画も二、三は観たことがあったし、曲も聴いたことがあった。気になりつつもハマってはいない、という微妙なスタンスだったその時期、彼らの写真やことばに直に触れるのは初めてで、なかなか面白がりながらそのページを読んでいた。彼らの歴史や功績についてもちょこちょこ載ってたし、なんだかめちゃくちゃ凝り性の上に創作や表現といった行為が大好きな人たちなんだろうなあとぼんやり思ったことをよく覚えている。へえ北斗さんが切り込み隊長なんだ、なるほど髙地さんがいじられキャラ、ふむふむ、と(気になっているとはいえ)あまりよく知らない人たちのインタビュー記事にしてはなかなかたのしく読んでいたそのとき、先の文が目に飛び込んできた。

『京本: 最後のライブでめっちゃシャウトして行方不明になりたい!
 ジェシー:それは、違う意味で伝説のライブになりそうだね(笑)』

これでインタビュー記事は終わっていたが、この、彼のことばを読んだとき、今まで感じたことのないレベルの衝撃が頭から突き抜けた。すごくびっくりした。暫く指も動かせなかったし、何度も何度も視線でその文字の並びをなぞった。本当に、息がつまるほどにびっくりして、それからすごくうつくしいひとだな、と思った。
 最後のライブでめっちゃシャウトしたい、ではなく、最後のライブでめっちゃシャウトして行方不明になりたい、である。行方不明になりたいのだ。彼は。歌っていない自分には、歌えない自分には、歌わない自分には、ファンの目の前に、ステージの上に立つ資格も価値も無いのだという確信のようなものが言外にあるように思った。たぶんそんな深い意味はないのだろうけれども、どこかで、彼自身の心のどこかでそう思っているからこそ飛び出たような発言にどうしても思えてしまったし、今でもこの一文を読むたびにそう思う。彼はステージの上に立つかぎり、歌っていたいのだと。いつまでも、旋律のなかに、音符の流れに身を浸して、詩のひとつひとつを身に纏って、そういう姿でこの世に(あるいはファンの前に)存在していたいのだと。その確固たる意志と覚悟をもって歌う彼のなんとうつくしいことだろう。その硬くあやうい決意のなんとうつくしいことだろう。文字通り全身全霊で音楽に向き合い音楽を愛する彼の、音楽にすべてを捧げる彼の、その姿、その歌の、なんとうつくしいことだろう。こんなにも無邪気に音楽や歌に身を投じるひとをほかにしらなかった。だからびっくりした。こんなにも献身的に、いっそ盲目的に、歌を希求し、歌を愛し、歌っていたいと強く願うひとがこの世界に居たのかと。
 彼がみずからの音楽について言及するとき、いつだって頭の中にこの一文がある。歌に対する思いを語るとき、いつだってこのことばが頭の中で渦を巻く。最後のライブでめっちゃシャウトして行方不明になりたいと言う彼の、つくる音楽、話す音楽、そういう彼が誇りを持って満面の笑みで素晴らしいものだと断言するSixTONESの音楽、あるいはそういう彼を否定するでもなくからかうでもなく包み込んで肯定するあの5人、その関係性にいつだって存在する鮮烈な音楽への忠愛は、やっぱりどうしようもなくうつくしいと思う。音楽をめぐる彼の姿勢やそれをとりまく5人のつながりがこの一連の文章から垣間見えるような気がして、たまに読み返しては静かにページを閉じるという行為を繰り返してばかりいる。こんなにも前のめりに音楽をやるひとの、ひとたちの、どうしてその旅路のすえに光があることを願わずにいられるだろうか?彼らの未来が祝福と幸福にみちていることを、どうして祈らずにいられるだろうか?

 京本大我さん、お誕生日おめでとうございます。心の底から大好きです、なによりもうつくしく歌に手をのばすあなた。

 

 

引用•参考:anan2191号(3月11日付)